本校の校門にある立て看板
帖佐地区の歴史
帖佐という地名は,建久8年(1197)の「大隅国図田帳」に「帖佐郡」として初めて現われます。その範囲は大字平松や木津志を除く旧姶良町域が想定されます。
弘安5年(1282)に京都石清水八幡宮の神官平山了清が下向し,その後平山城を居城に約170年間平山氏が支配しました。
室町時代の享徳年間(1452?1454)には,豊州家島津氏初代の季久が平山氏を攻め下し,瓜生野城(後の建昌城)を築いて帖佐を領有しました。
その後,島津氏,加治木氏,祁答院氏などによる領地争いが続きましたが,天文23年(1554)?弘治3年(1557)の大隅合戦により島津氏の支配が確立しました。
文禄3?4年(1594~1595)に行われた太閤検地の後,帖佐村の石高7864石は島津義弘に与えられました。これを受け,義弘は文禄4年(1595)に居城を栗野(湧水町)から帖佐へ移します。この時点ですでに帖佐は街道に沿って町が作られ,賑わっていたと考えられます。当主である兄の義久に遠慮し,代わりに息子の忠恒を鹿児島に入れました。
この時期に山田郷が分かれ,その後江戸時代には鹿児島藩の外城(麓)の一つとなりましたが、元文2年(1737)に重富郷が分置されました。
寛永13年(1636)当時の人口は3011人で、寛文4年(1664)当時の帖佐郷に所属する村は,餅田・三拾町・鍋倉・豊留・中津野・深見(深水)・益田(増田)・寺師・住吉・長瀬(永瀬)・山田・大山・船津・甑・春花・千本・平松・脇本(脇元)・辺川の19ヵ村です。
帖佐地頭仮屋は,現在の帖佐小学校の場所に置かれ,政治・行政の中心地でした。一方別府川沿いの納屋町は藩の御用蔵が置かれ物流拠点として発展し,特産品の帖佐叺(かます)は納屋町船で県内に広く販売されました。船の出入りで賑わう納屋町の様子は「帖佐で名所は米山薬師,前は白帆の走り船」とうたわれました。
平成25年3月に姶良市観光協会が建てたものです。
地図の左右に校区内の名所旧跡文化財についての記載があります。
この立て看板の横に柱があります。
こちらは平成20年6月に当時の町教委が建てたもののようです。
この立て看板の左にはこんな案内板が掛けられています。
この道の突き当りが島津義弘居館跡です。
ガードレールは実は橋です。
この橋を右に行くと,石垣が見えてきます。
この石垣,昔のお城の石垣だとか。
ということは,この川は堀ですね。
この堀にはお魚さんがたっくさんいます。
以下は現地踏査時の写真です。
米山薬師
総禅寺跡
島津義弘居館跡石垣
花園寺跡
古帖佐焼宇都窯跡
膝付き栗毛の墓
お茶の水
昭和56年11月28日 帖佐小学校創立110周年記念事業推進委員会編
創立110周年記念誌
八板先生のページ(2010〜2011)
「帖佐小学校の近くにある史跡を訪ねてみよう」
姶良市ホームページの中から校区に関するコンテンツを以下に集めてみました。
姶良市デジタルミュージアム
広報誌関連
・広報あいら(昭和37年1月~昭和63年12月)
・まちだより(昭和47年5月~昭和62年12月)
姶良郡管内図(大正13年)
懐かしの写真館(大正時代の脇元海岸 桜島への馬運搬)
校区内県指定文化財
・古帖佐焼宇都窯跡
校区内市指定文化財
・三十六歌仙額
・島津豊後守季久の墓
・島津豊後守朝久の墓
・御屋地様の墓
・本田勝吉の墓
・膝つき栗毛の墓
・天福寺磨崖仏
・島津義弘居館跡石垣
・帖佐八幡神社浜下り
・帖佐八幡神社の大銀杏
帖佐人形について
・帖佐人形(製作工程1)
・帖佐人形(製作工程2)
・帖佐人形製作工程(昭和63年調査)及び帖佐人形リーフレット
・県内最古の帖佐人形
・土人形とは
・垂水人形
・東郷人形
・宮之城人形
・佐土原人形
・島津豊久
・宇都オネッケ(動画)
・姶良市公式youtubeチャンネル