お知らせ新着情報
- 2018年12月20日
- 学校便り平成30年12月号を更新しました。
- 2018年11月26日
- 学校便り平成30年11月号を更新しました。
- 2018年10月31日
- 学校便り平成30年10月号を更新しました。
- 2018年10月3日
- 学校便り平成30年9月号を更新しました。
- 2018年7月20日
- 学校便り平成30年7月号を更新しました
- 2018年7月13日
- 学校便り平成30年6月号を更新しました
-
1 校区の概要
(1)校区の位置と地勢
いちき串木野市は、西は東シナ海に面し、南東は日置市、北西は
薩摩 川内市に接し、鹿児島市の北西に位置している。
本校区は,いちき串木野市の南部に位置し,総面積は31.56㎢
である。大里川と八房川はともに源を日置市重平山付近に発し、大里
川は校区の南東から西を縦断し、八房川は北東から西を横断して湊町
で合流し、東シナ海に注いでいる。主として2つの川の流域に沿って
水田が広がり、畑地は丘陵地にあり、大部分は火山灰土質である。海
岸線は約5km余りで、日本三大砂丘の一つ県立自然公園吹上浜砂丘
の一部をなしている。
(2)郷土史の概要
本校区は、旧石器時代から人々が生活していたことが分かっている。
戸崎や寺迫には、約18000年前の旧石器時代の人々が使った道具
や遺構が出てきている。川上にある龍之段遺跡では、旧石器時代から
縄文時代にかけて使われた弓矢の先が多く出ている。川上の中組には、
約3700年前の人々が食べた、貝や動物の骨が多数堆積する市来貝
塚がある。市来貝塚ができた縄文時代後期は、中組あたりまで海が入
り込んでいたと思われる。
奈良時代後期、大蔵政房が市来院(現在のほぼ市来・東市来の範囲)
の院司となり、大里鍋ヶ城の館を構えた。
鎌倉時代の1224年,大蔵氏の道阿が惟家政家に院司職を譲り、
それ以後子孫が市来院の領主となり、薩摩・大隅2国の守護職であっ
た島津氏も一目置く豪族となった。室町時代の1462年、惟宗姓市
来氏第7代久家の時、島津氏第10代太守立久と争い、滅ぼされた。
その後、市来は島津氏の直轄地となり、地頭がその行政を行った。役
所であった地頭仮屋は、少なくとも慶長年間(1596~1614年)
頃から現在の市来庁舎付近に置かれていた。
市来の人々は、早い時代から海外に雄飛した。朝鮮李氏王朝の記録
に惟宗姓市来氏第6代家親及びその子久家の持ち船が朝鮮に交易に来
たと記されている。長崎奉行所の裁判記録にも市来の人々のことが記
録されており、人々の活発な交易や市来湊の繁栄の様子が推測される。
港町として発展したことから様々な民俗芸能があり、祇園祭や各地
で踊られた棒踊り、五穀豊穣と平和を祈念して踊られる川上踊りや虫
追踊り、島津義弘の朝鮮の役での活躍を称えた七夕踊り等は今でも踊
り続けられている。
明治22年(1889年)の町村制施行により、市来郷は東西市来
に分かれ、西市来村となった。
大正9年(1920年)県立第二師範学校が西市来村に創立された。
(昭和9年に第一師範と合併)
昭和5年(1930年)に町制が施行され市来町となった。
昭和23年(1948年)に町内全地域に「公民館」組織を整備し、
昭和24年からは社会教育の拠点となっている。
平成17年10月11日には市町村合併により市来町と串木野市が
合併し、いちき串木野市となった。
2 校区略地図(校区略地図)