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    日本三大砂丘の吹上浜に面した、恵まれた環境  
いちき串木野市立  
市来中学校

 市来中学校は、薩摩半島の南西、南さつま市から続く長さ47kmの吹上浜の北端部に位置します。吹上浜は日本三大砂丘の1つであり、日本の渚百選にも選ばれています。


お知らせ新着情報

2016年3月31日 
学校便り1月号、2月号を更新しました。
2016年1月7日  
学校便り12月号を更新しました。
1 校区の概要

(1)校区の位置と地勢
    いちき串木野市は、西は東シナ海に面し、南東は日置市、北西は
   薩摩 川内市に接し、鹿児島市の北西に位置している。
   本校区は,いちき串木野市の南部に位置し,総面積は31.56㎢
  である。大里川と八房川はともに源を日置市重平山付近に発し、大里
  川は校区の南東から西を縦断し、八房川は北東から西を横断して湊町
  で合流し、東シナ海に注いでいる。主として2つの川の流域に沿って
  水田が広がり、畑地は丘陵地にあり、大部分は火山灰土質である。海
  岸線は約5km余りで、日本三大砂丘の一つ県立自然公園吹上浜砂丘
  の一部をなしている。

(2)郷土史の概要
   本校区は、旧石器時代から人々が生活していたことが分かっている。
  戸崎や寺迫には、約18000年前の旧石器時代の人々が使った道具
  や遺構が出てきている。川上にある龍之段遺跡では、旧石器時代から
  縄文時代にかけて使われた弓矢の先が多く出ている。川上の中組には、
  約3700年前の人々が食べた、貝や動物の骨が多数堆積する市来貝
  塚がある。市来貝塚ができた縄文時代後期は、中組あたりまで海が入
  り込んでいたと思われる。
   奈良時代後期、大蔵政房が市来院(現在のほぼ市来・東市来の範囲)
  の院司となり、大里鍋ヶ城の館を構えた。
   鎌倉時代の1224年,大蔵氏の道阿が惟家政家に院司職を譲り、
  それ以後子孫が市来院の領主となり、薩摩・大隅2国の守護職であっ
  た島津氏も一目置く豪族となった。室町時代の1462年、惟宗姓市
  来氏第7代久家の時、島津氏第10代太守立久と争い、滅ぼされた。
  その後、市来は島津氏の直轄地となり、地頭がその行政を行った。役
  所であった地頭仮屋は、少なくとも慶長年間(1596~1614年)
  頃から現在の市来庁舎付近に置かれていた。
   市来の人々は、早い時代から海外に雄飛した。朝鮮李氏王朝の記録
  に惟宗姓市来氏第6代家親及びその子久家の持ち船が朝鮮に交易に来
  たと記されている。長崎奉行所の裁判記録にも市来の人々のことが記
  録されており、人々の活発な交易や市来湊の繁栄の様子が推測される。
   港町として発展したことから様々な民俗芸能があり、祇園祭や各地
  で踊られた棒踊り、五穀豊穣と平和を祈念して踊られる川上踊りや虫
  追踊り、島津義弘の朝鮮の役での活躍を称えた七夕踊り等は今でも踊
  り続けられている。
   明治22年(1889年)の町村制施行により、市来郷は東西市来
  に分かれ、西市来村となった。
   大正9年(1920年)県立第二師範学校が西市来村に創立された。
  (昭和9年に第一師範と合併)
   昭和5年(1930年)に町制が施行され市来町となった。
   昭和23年(1948年)に町内全地域に「公民館」組織を整備し、
  昭和24年からは社会教育の拠点となっている。
   平成17年10月11日には市町村合併により市来町と串木野市が
  合併し、いちき串木野市となった。

2 校区略地図(校区略地図)

バナースペース


校  旗




校  訓

切  不  好
磋  撓  学
琢  不  愛
磨  屈  知


校   歌
作詞・作曲  松山 堅


  

いちき串木野市立 市来中学校

〒899-2103
鹿児島県いちき串木野市大里3764

TEL 0996-36-2056
FAX 0996-36-4819