重富小学校は,平松城跡に建設された。校地は総延長548.3mの野面積みの石垣に囲まれ,正面の高さ2.5mは ,昔日のままの姿で町文化財に指定されている。また,正門の門柱は,大正14〜15年にかけ,旧県庁のものを移設したものである。
白浜,白銀坂,触田と続く姶良カルデラの断層南西端に位置する本校は,古戦場剣の平を目前に牟礼ケ岡(529m),赤崩(578m),惣林山(450m),天ケ鼻(429m)等の町内有数の高山の麓で,国道10号線から西へ1q離れた閑静な場所にある。校地南側の約8000平方メートルの森には,梅園,竹林,茶園,柿,柑橘園等があり,四季おりおりの果実の収穫や野菜の栽培等,勤労生産学習や体験学習に活用している。また,ワイワイ広場やグリーン広場では,野外学習,青空給食,緑陰読書,集会活動などに活用している。これらを恵まれた自然環境と融合した学習環境として活用し,自然との調和の中で勤労や豊かな心を培う直接体験,協働による相乗的な教育効果を推進している 。

歴史 

1 重富の歴史
 
  平安時代末の頃,重富は蒲生に属していた。鎌倉時代初期に,島津忠久が薩摩守護になって以来,350年余を経た天文23年(1554),15代・島津貴久の率いる島津勢が蒲生方の支城・岩剣城を攻略した。落城後の岩剣城を任された三男・義弘(17代)は,山麓に平松城を築いた。
  江戸時代になり元文2年(1737),藩主・島津継豊は,弟・忠紀に越前(重富)島津家を再興させ,帖佐郷の脇元・平松・船津・春花の四村と吉田郷一部の触田村と併せて1万石を与え,重富郷とした。この地名は,鎌倉時代,忠久の二男・忠綱が越前国(福井県)の守護代として治めた領地に由来する。重富島津氏は,忠紀から21代・
珍彦(うずひこ)まで,明治維新・廃藩置県に至る約130年ほど続いた。その間 ,平松城に館を,邸を鹿児島城下・鼓川,別荘を鶴江崎の重富荘に構えた。
  明治22年(1889年),町村制実施で重富村となる。昭和30年(1955年),帖佐町・重富村・山田村が合併して,姶良町となった。

 
2 重富の環境
 

 
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校歌

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歴史散歩(学校・校区)

  島津家にゆかりのある学校には,県内外からたくさんの人が見学に来られています。平松城は,篤姫の父である島津斉彬の弟,久光の居城でした。
校舎の後ろの山(頂上近く)が
岩剣城跡です。義弘が3年間在城したと伝えられています。その後,学校のある麓に平松城を築きました。

手水鉢(ちょうずばち)つくばい
手を洗う水を入れておく鉢

布引の滝(ぬのびきの滝)≪校区≫
幅2m、高さ20m、白布をかけたように見えることから名付けられました

大口筋白銀坂≪校区≫
姶良市脇元から鹿児島市牟礼ヶ岡までの石畳残る旧街道です。

岩剣城跡から見た風景≪校区≫

岩剣城跡(剣の平頂上)から見た風景です。登るのはちょっと大変です。
篤姫のテレビ番組の撮影にも使われました

館の馬場
幅11m,長さ約275mの1直線の道。学校前には桜が植えられており地域の人がお花見をされることもあります。

越前島津家墓地≪校区≫
墓地には16代島津忠紀以下の歴代当主とその家族(33墓)が葬られている。また明治20年に起こった西南戦争に重富から薩軍側として従軍し、戦死した人々の霊をまつった招魂石もあります。

岩剣神社≪校区≫
今から500年程前に蒲生の殿様が自分の氏神として大黒さまをまつりました。戦国時代には、岩剣城にたてこもる蒲生氏を島津義弘が攻めますが,なかなかおちないので、岩剣神社のご神体を自軍にもっていき祈ったところ、さしもの岩剣城もかんらくしたそうです。

白金酒造≪校区≫

明治2年から続く白金酒造。石蔵の中では昔ながらの製造方法で手づくりの焼酎をつくっています。